戦国時代の領民は、百姓も兵士として働きました。年貢は納めなくてはいけない、合戦では命を懸けなくてはいけない。このような状況下、なぜ北条氏康は歴史に残るほど領民に慕われたのでしょうか。経営環境が厳しいときこそ、彼に学ぶところがあるように思います。
表は文、裏は武の人……
東嶺智旺という僧が、相模の虎といわれた戦国時代の名将、北条氏康をこう評しました。「氏康は、表は文、裏は武の人で、治世清くして遠近みな服す。当代無双の真の覇王」と。
表は文、裏は武。戦に明け暮れた時代にあって、氏康はなぜそう評されたのでしょうか。
北条氏康(1515-1570)。武田信玄、上杉謙信、今川義元などとの激しい戦を繰り広げ、関八州を平定した戦国大名のひとりです。三十六度の戦に出陣し、受けた傷はすべて体の前面にあったという無双の顔とともに、歴史上大変有名なのが民生家としての手腕です。いまなら名経営者間違いなしです。
社員の攻めの姿勢を担保する要素とは
天文19年(1550年)4月に実施された税制改革では、それまで不定期の徴収で泣かされていた農民に対し、貫高の6%の懸銭を納めさせることにより納税を均質化し結果として負担を軽減させました。同時に、税は直接北条氏に納められ、中間搾取がなくなったことで国人等の支配力が低下し北条氏の権力はより大きなものとなりました。凶作や飢饉の年には減税や年貢の免除、反銭や棟別銭を始め国役までの免除すら行なったといいます。
明日の命すら保障のない戦いの時代、勝てば官軍、負ければ即人生おしまいです。隣国は虎視眈々と常に自分の領土を狙っています。しかも、自分は強大な武力を持った絶対権力者です。少しばかり余分に利益を自分の蔵に入れたからといって誰も文句はいえません。そんな状況で減税なんてできますか?
会社であれば、創業者であるオーナー社長が、来年のことさえわからない厳しい不況下、かつ激烈な競争をしているときに社員の給料を上げたり、将来の給与を保証したりするようなものでしょう。なかなかできないことと思います。ほとんどは逆ですね。
景気が悪くなれば給料は下がります。普通の現象です。氏康は、そういうときのために備蓄していたのでしょう。蓄えがあってなお下げる、ということも現実には起こります。
よく語られますが、氏康の死が小田原の城下に伝えられると領民は皆泣き崩れ、その死を惜しんだといわれます。領民たちは年貢を納めたくて、労働をしたくてしているわけではなかったでしょう。家族を残して殺し合いの合戦にも行きたくなかったに違いありません。減税したとはいえ、領主が搾取していることにはかわりないのです。これは現在も同じ労働者の心理でしょう。
それでも、氏康がこれほど領民から慕われていたのは、税目や官僚機構の整理により領民が納得する形で無駄な負担を減らす経営を実践し、隣国からの攻撃はもちろんのこと、上記のように不作や災害からも領民とその家族を守ったからではないでしょうか。勝海舟によれば、後年、徳川家康が小田原を統治することになった際には、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったといいます。
会社経営を考えるとき、守りが先にたって攻めない経営などありえません。会社がビジネスに取り組むときには常に「攻撃こそ最大の防御」でしょう。しかし、組織の構成員としての社員と家族を守ることが社員の攻めの姿勢を担保する要素であることは、北条氏康とその領民の歴史が物語っているといえるのではないでしょうか。
朝礼スピーチ例文(そのまま読めます)
戦国時代、小田原を本拠にした北条氏康という武将の話です。
この人は、1550年に税制を改革しました。それまで領民は、いつ取られるか分からない不定期な徴収に苦しんでいた。それを、決まった率で納める形に統一したのです。
結果として、領民の負担は軽くなりました。しかも税が直接北条家に入るようになったので、途中で抜かれる分がなくなった。
さらに、凶作や飢饉の年には減税や免除も行なっています。
戦国時代です。明日どうなるか分からない。隣国はいつ攻めてくるか分からない。しかも自分は絶対的な権力者で、少し多めに取っても誰も文句を言えない立場でした。
それでも減税した。
会社でいえば、先行きが見えない不況のなかで、社長が社員の給料を上げるようなものです。普通は逆をやります。
氏康が亡くなったとき、小田原の領民は泣き崩れたと伝えられます。年貢を納めたい人も、戦に行きたい人も、いなかったはずなのに。
守るほうが先か、攻めるほうが先か。氏康を見ていると、守られているから攻められる、という順番なのかもしれません。
今日、自分が守られている部分は何か。一度考えてみてください。
取材・文/キャトル・バン
