長州の遺伝子 ― 1日の生産量を7分30秒で撃ち尽くす

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長州藩の遺伝子を継いだ日本陸軍の無計画性!?
以前、成功体験に縛られた日本陸軍について書いた。「日露戦争はこうして勝てた」という方程式に縛られ、装備は二流のまま、精神性を強調することによってのみ戦いに臨んでしまったのである。逆に「いままではこうだった」という硬直した発想に陥る下地が長州にあったこともまた事実だ。

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300年つづいた徳川家への恨み

「長の陸軍」「薩の海軍」といわれたのは、明治期のことである。この当時、まだ幕末の薩長の影響力が色濃く残り、藩閥という形が残っていた。それを象徴する言葉として「長の陸軍、薩の海軍」といわれたのだ。陸軍では長州閥が強く、海軍では薩州閥が強いという意味だ。

長州藩といえば、いわずと知れた毛利家。関ヶ原の合戦時には中国地方の125万石の覇王として西軍の領袖に担ぎだされた。結果として敗れ去り、所領を一気に3分の1に削り取られ、しかもその居城を日本海側の萩へと移された。家臣の整理も考えられたのだが、多くの家臣が主家を去ることを嫌がり、それまでの3分の1、2分の1の禄での生活を余儀なくされる。家臣団の生活の窮乏はおして知るべしである。

その窮乏の原因はすべて徳川家にあるとして、以来家臣は足を東に向けて寝ていたという。さらには主家毛利家においては、伝説とされる秘密儀式が徳川時代の初期から行なわれていた。それは元旦の夜明け前、第一の家臣が殿の前にかしずき「もはや徳川家討伐の準備はできましたが、いかが致しましょう」と問うと、殿が「いやまだ時期が熟せぬ」と答えていたというのだ。徳川300年にわたってである。

無計画さ、暴発性に長州の遺伝子が

その潜在的な対徳川、倒幕の気運が一気に爆発したのがいわゆる幕末だ。長州はどこの藩よりも急進的に尊皇攘夷、倒幕を打ち出し、暴発を繰り返した。長州浪士を中心に京都焼失の謀議をめぐらしたときに起こった池田屋の変、ついには朝敵とされる蛤御門の変、その後の二次までわたる幕長戦争など、どの藩よりも疲弊し、崩壊寸前にまで追いやられる。

しかし生き残った。そればかりではない。最終的には坂本龍馬が周旋した薩長同盟によって息を吹き返し、ついには倒幕、政権奪取にいたるのである。そこで「長の陸軍」である。

司馬遼太郎氏はいう。「この幕末における無計画さ、暴発ぶり、目的のためには盲蛇となってしまう精神構造、それは長州軍閥の遺伝因子」として、日本陸軍に残った。事実、無計画さを象徴する話が、日露戦争であった。

薩摩を中心に組み上げられた海軍は、機械を運用するがゆえに合理性に富み、計画性があった。彼らは日露戦争開戦前から組織人事の刷新に取り組み、かつ開戦後にも十分耐えうる砲弾の生産計画を立てていたという。しかし長州閥を中心とする陸軍は、開戦直後に必要とする砲弾数はそろえたものの、初戦の戦闘で使った砲弾の量は、日清戦争で使用した全砲弾量を越えてしまっていたのである。

わずか7分30秒でうち尽くす生産量

陸軍の無計画さは、「戦時下において砲弾を生産する」ということを計算にいれていなかったこと。初戦で必要な砲弾は用意したものの、その後の補給に関しての考えが欠落していたのだ。当時陸軍の砲弾は東京と大阪の工廠で製造されていたが、1日の生産量がわずか300発。それは砲兵1個中隊で速射すればわずか7分30秒でうちつくすという程度の数量だ。それは「日清戦争ではこの程度だった」という前例主義が硬直した考えを生み出した。

関ヶ原の怨念が倒幕志向を保たせ、いざ事が起きると無計画に暴発する。乱暴ともいえる見方だが、歴史が新たな歴史を生み出し、連鎖していることの証左であろう。今起きている事象の淵源を探り出すこと。それはすなわち歴史に検証を加えるという作業に他ならない。

朝礼スピーチ例文(そのまま読めます)

読み上げ時間 約1分(約400文字)

日露戦争のときの話です。

日本陸軍は、開戦にあたって必要な砲弾を用意しました。ところが、戦いが始まってみると、最初の戦闘で使った砲弾の量が、10年前の日清戦争で使った全部の量を超えてしまった。

何が起きたか。補給が追いつかなくなりました。

当時、砲弾を作っていたのは東京と大阪の工場で、1日の生産量は300発。これは砲兵の1個中隊が速射すると、7分30秒で撃ち尽くす量だそうです。

なぜこうなったのか。

戦争が始まってから砲弾を増産するという発想が、そもそもなかったからです。開戦時に必要な分は揃えた。でもその先を考えていなかった。

根拠は「日清戦争ではこの程度だった」という前例でした。

一方、海軍は違いました。開戦前から人事を刷新し、戦いが長引いても耐えられる生産計画を立てていたそうです。

同じ国の、同じ時期の組織でも、ここまで差が出ます。

私たちも、前回これで足りたから今回も大丈夫、と考えることがあります。でも前回と今回では、規模も相手も違うかもしれない。

今日、前例を根拠にしている判断がないか。一つ確かめてみてください。

執筆者情報

新谷 哲のアバター 新谷 哲 WizBiz株式会社 代表取締役社長

1971年、東京都生まれ。都立駒場高校出身。大学卒業後、ベンチャー・リンクに就職。銀行、信用金庫の融資コンサルタントを皮切りに、仙台支店長、東日本事業部長、執行役員を歴任。その後、常務執行役に就任し、経営コンサルティング部門や営業部門、サービス提供部門を統括。
2010年、当時赤字だった「WizBiz」という経営者向けネットメディア事業の20人の部下を引き連れ会社から独立。代表就任とともに、レカムの傘下に入り、レカム株式会社の100%子会社として、WizBiz株式会社を創業。2011年、レカムと光通信の出資分を全て買い取る。2023年12月、TOKYO PRO Market(東京プロマーケット)市場へ上場。
現在、経営者向けネットメディア「WizBiz」を運営。国内では経営者の会員登録数でNo.1のメディアとなっている。また、経営者向けサービス提供としては、ネットだけでなく、リアルの場も力をいれており、年500回以上のセミナーを開催し、4000名を越す経営者が参加。18万人の社長アンケートから1000個の悩みを回収。

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