なぜ42.195キロなのか ― マラソンの起源

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なぜマラソンの距離は42.195キロメートルという中途半端な数字なのか。その答えを探ると、2500年前のギリシャにたどりつく。

目次

マラソンの起源となる「マラトンの戦い」

マラソンの淵源となったエピソードがある。「マラトンの戦い」である。

「マラトンの戦い」とは、紀元前490年9月、ギリシャのアッティカ半島東部のマラトンで、アテナイ・プラタイア連合軍がペルシャ帝国の遠征軍を迎え撃ち、ギリシャ側が勝利を収めた戦いのことをいう。

強敵のペルシャ軍は、ギリシャの都・アテネの北東約40キロにあるマラトンに上陸した。ただちに迎撃にでたアテネ軍と対峙する形になったという。当時、アテネ市内には、強大なペルシャ帝国と和睦し、同盟を結ぶほうが有利と考え、ペルシャ軍に内応する者が出るおそれがあった。

「われら勝てり」と告げて絶命

ペルシャ軍の軍勢は2万人以上。対するアテナイ・プラタイア連合軍は1万5000人足らず。当然のこと、最前線においても融和論が検討されたが、将軍ミルティアデスの建議にしたがって、ペルシャ軍との交戦をはじめた。

巧みな戦法により、長時間の激戦の末、アテネ連合軍は勝利する。連合軍の戦死者は200名足らずであったのに対し、ペルシャ軍のそれは7000人を超えたとされる。

さて、この「マラトンの戦い」の勝利の報をもたらすため、ひとりの兵士がアテネへ走ったと伝えられる。名はフィリッピデスとも、エウクレスともいう。走り着いた彼は、戦況の趨勢を固唾を飲んで待っていた市民に「われら勝てり」と告げて絶命した。

彼が急いだのには理由がある。アテネではこのとき、抗戦派と降伏派とが争い、一触即発の大変な危機にあった。まさに彼が自らの命を賭けて伝えた「われら勝てり」の一報がなければ、収拾のつかない大混乱も予想されたのである。

もっとも、この逸話は後世の文献に見えるもので、同時代の史料には記されていない。後年になって語り継がれるうちに形を得た話とする見方もある。それでも2500年にわたって伝えられてきたこと自体に、人々がこの場面に見たものがあらわれているのだろう。

この故事に基づいて、1896年にアテネで開催された第1回近代オリンピックでは、マラトンの古戦場からアテネ市までの約40キロの長距離競走が行なわれた。これが現在のマラソンの由来である。

ちなみに距離が42.195キロに固定されたのは、1924年のパリ大会からである。第1回大会は約40キロ、以後の大会でも距離はまちまちだった。42.195という半端な数字は、1908年のロンドン大会で王室の希望によりスタート地点が変更された結果とされる。

第1回オリンピックでも劇的な光景が

じつは第1回近代オリンピックにおいても、劇的な光景があったという。当時のギリシャは、経済的にも疲弊しきった時代であった。そのなかで開催されたオリンピックであったのだが、ギリシャ選手は大会初日から振るわない。そして迎えた最終日。注目のマラソンが行なわれた。

スタート直後からフランス、アメリカ、そして後半にはイギリス選手がトップに立つなど、めまぐるしく順位が入れ替わった。ところがゴールまであと10キロと迫ったところで、突然、ギリシャの若き選手が先頭に躍り出る。彼は羊飼いであり、科学的、専門的なトレーニングは何ひとつしていない無名の選手であった。

トップのままゴールとなる競技場に彼の姿が現われるや、7万人もの大観衆が全員総立ちとなって迎えた。しかも感極まったギリシャの皇太子も貴賓席からフィールドに駆け下り、最後の200メートルを選手とともに並んで走り出すというおまけつきである。

近代オリンピックの創設者クーベルタンも、この光景を生涯最大の感動として語ったという。そして「スポーツの世界では精神の力が、一般に理解されている以上に大きな役割を果たすものであることを確信した」と綴った。

マラソンの起源もそうだが、第1回近代オリンピックから数々の劇的なシーンを演出してきたマラソンは、いまでも“大会の花”と呼ばれている。

朝礼スピーチ例文(そのまま読めます)

読み上げ時間 約1分(約400文字)

マラソンの話です。

紀元前490年、ギリシャのマラトンという場所で戦いがありました。アテネ軍1万5000に対して、ペルシャ軍は2万以上。

このとき、アテネの市内では意見が割れていました。戦うべきだという人と、降伏すべきだという人。一触即発の状態だったそうです。

戦いはアテネ側が勝ちました。

その報せを届けるため、ひとりの兵士がマラトンからアテネまで、約40キロを走ったと伝えられます。そして「われら勝てり」と告げて、そのまま息絶えた。

彼が急いだのには理由があります。勝ったという一報が届かなければ、市内の対立が収拾できなくなるところだったからです。

この話がもとになって、近代オリンピックでマラソンという競技が生まれました。

ちなみに、この逸話が史実かどうかは分かっていません。同時代の記録には残っていないそうです。

それでも、この話が2500年語り継がれてきた。

情報が届くかどうかで、組織が割れるか、まとまるかが変わる。そのことを、昔の人もよく知っていたのだと思います。

今日、誰かに伝えるべき報告があるなら、後回しにしないでください。

執筆者情報

新谷 哲のアバター 新谷 哲 WizBiz株式会社 代表取締役社長

1971年、東京都生まれ。都立駒場高校出身。大学卒業後、ベンチャー・リンクに就職。銀行、信用金庫の融資コンサルタントを皮切りに、仙台支店長、東日本事業部長、執行役員を歴任。その後、常務執行役に就任し、経営コンサルティング部門や営業部門、サービス提供部門を統括。
2010年、当時赤字だった「WizBiz」という経営者向けネットメディア事業の20人の部下を引き連れ会社から独立。代表就任とともに、レカムの傘下に入り、レカム株式会社の100%子会社として、WizBiz株式会社を創業。2011年、レカムと光通信の出資分を全て買い取る。2023年12月、TOKYO PRO Market(東京プロマーケット)市場へ上場。
現在、経営者向けネットメディア「WizBiz」を運営。国内では経営者の会員登録数でNo.1のメディアとなっている。また、経営者向けサービス提供としては、ネットだけでなく、リアルの場も力をいれており、年500回以上のセミナーを開催し、4000名を越す経営者が参加。18万人の社長アンケートから1000個の悩みを回収。

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